日本橋本石町とは

「日本橋本石町」には、江戸時代に「金座」が置かれていました。
現在はその跡地に日本銀行が建てられ、日本の金融を代表する街でもあります。

この地は「石町(こくちょう)」と呼ばれていましたが、寛文年間(1661年~1673年、徳川家綱の将軍時代)に、神田に新石町(しんこくちょう:現在の内神田三丁目付近)ができたことで、本石町と呼ばれるようになりました。

昭和7年(1932年)に関東大震災後の区画整理により、本石町は従来からの町域を変更することになり、この時周辺にあった金吹町、北鞘町、本革屋町、本銀町、本町、本両替町などの町域全部または一部を合併し、現在の本石町一〜四丁目となりました。
南から順に一丁目から四丁目までが並んでいます。
江戸時代には三丁目に、市中に時を告げる鐘が置かれていたことでも有名です。

また二丁目と三丁目の間近くにあった十軒店(じゅっけんだな)には、毎年桃の節句や端午の節句になると人形の市が立ち、年の暮れには破魔矢羽子板を売るなどして賑わったそうです。
※十軒店は現在では日本橋室町三丁目の一部に当たる。

 
また長崎屋と呼ばれるオランダ商館があったことでも知られています。
なんと1850年(嘉永3年)まで200年以上に渡り、鎖国下の江戸において西洋に向かって開かれた貿易、文化交流の唯一の窓口でありました。
葛飾北斎は好奇心旺盛な当時の江戸庶民が赤毛の異人を一目見ようと、長崎屋前に大挙して集まる絵が有名です。

画本東都遊

『画本東都遊』(えほんあずまあそび)享和2年(1802年)刊葛飾北斎画。本石町の長崎屋に滞在するオランダ人たちと、それを見物する江戸の人々を描く。
「国立国会図書館デジタルコレクション」より

また、当時のこの界隈を描いた浮世絵などがたくさん残っています。
この頃の浮世絵の多くに「富士山」や「江戸城」そして「橋」が描かれ、これが3点セットになっているものもたくさん見受けられます。

絵本江戸土産

「絵本江戸土産」より「八ツ見橋の景」歌川広重筆
「国立国会図書館デジタルコレクション」より

この絵は当時の江戸を代表するカットとも言えるかと思いますが、外堀通りが日本橋川の上を渡る場所に一石橋(いちこくばし)があります。
(首都高速の呉服橋出入口付近…現在は閉鎖)
右下には一石橋の名の由来について書かれています。

江戸時代末期、この付近で江戸城東側の外堀であった外堀川と日本橋川、城内へ日本橋川からの物資を運び入れるための道三堀(どうさんぼり)が交わっていました。
水路の辻(つじ)ともいえるような場所であったことは言うまでもありません。
一石橋の上に立つと、外堀川に架かる呉服橋と鍛冶橋、道三堀の銭瓶(ぜにかめ)橋と道三橋、日本橋川・北方向の常盤橋、西方向の日本橋、江戸橋と7つの橋が見えたことから一石橋を「八ツ見の橋(やつみのはし)」「八見橋(やつみばし)」と呼ばれていたそうです。

名所江戸百景「八ツ見のはし」

名所江戸百景「八ツ見のはし」歌川広重筆
(中央正面に見える橋は銭瓶橋)
「国立国会図書館デジタルコレクション」より

徳川家康が江戸に入った時に、江戸城の建設のための物資や、籠城になった際の食料を搬入するために掘った濠なので、これだけの大規模な橋が一堂に見渡せたんだそうです。

一説によると一石橋は当時橋の南側に屋敷を構えていた、
御用呉服師の後藤縫殿助(ぬいのすけ)と北側に住んでいた金座の後藤庄三郎が資金を出し合い、地震で壊れたのを架け直したものだといいます。
後藤家(5斗)が2軒なので5斗+5斗=1石になるので、一石橋と命名されたというのが有名な話で、諸説ありますが古典落語の「十徳」という噺にも登場します。
また橋の袂には広重が「八ツ見のはし」を描いた翌年に立てられた、「一石橋迷子しらせ石標」が現在でもその姿を残しています。
今のように交番や携帯などがない時代、迷子の情報を交換するには、このような手段しかなく、他にも湯島天神、浅草寺、両国橋など、当時の繁華街というようなところに置かれていたようです。
1970年代の時代劇番組「子連れ狼」の主題歌には、「ててごと、ははごと、ごとごとと、一石橋で逢えばよい」
「迷子になったらどこで待つ」という歌詞が出てきます。
「ごとごと」は子連れ狼と言ったら乳母車、これを押すときの音をイメージさせますが、5斗5斗=1石として一石橋を表しているという昔の人ならではの面白さがここにあります。

一石橋迷子しらせ石標

一石橋迷子しらせ石標

道三堀は明治の末、外堀側は第2次世界大戦後に埋め立てられました。
かつて外堀だった一石橋の南詰から東京駅八重洲口、数寄屋橋にかけては「外堀通り」という幹線道路になり、今ではオフィスビルや商業施設が立ち並ぶ東京の中心部となりました。

またこの辺の橋で忘れてはいけないのが常盤橋、常磐橋です。
1629年(寛永6年)、出羽、奥羽の大名により、外郭諸門(日比谷・数寄屋・鍜冶橋・呉服橋・常盤橋・神田橋・雉子橋)が築かれました。
常盤橋門は江戸五口のひとつ奥州道の出口で、浅草口、あるいは追手口、または大橋とも言われ、江戸時代を通して江戸城の正門に向かう外郭正門でした。
中世には江戸と浅草を結ぶ街道(奥州道)の要衝であったと考えられています。

現在のCOREDO室町テラスと三井タワー(ホテルマンダリンオリエンタルや千疋屋総本店の入っているビル)の間の道路がまさにそれで、旧日光街道としても知られています。
この奥州街道と日光街道ですが、日本橋から宇都宮までの道程は共通であったため、元来の古道である奥州道は日光街道の開通と共に日光街道と称されるようになりました。

そんな主要な道路の出発地である常盤橋御門は、この後、大火や地震などで修復を繰り返し、江戸時代の終焉と共に1873年(明治6年)門が撤去され、さらに1877年(明治10年)に枡形石垣の多くは取り壊されました。

しかし小石川橋門の石垣の一部を使って石橋「常磐橋」が建造され、残った石垣の保存状態が良好に保存されていたことから、時を経た1928年(昭和3年)、国の史跡「常磐橋門跡」に指定されることになります。

その後1933年(昭和8年)その袂に常盤橋公園も開園し、翌1934年(昭和9年)には常磐橋の修復工事が行われました。
この再建に尽力した人物こそ、2024年に壱万円札の新しい顔ともなる渋沢栄一でした。
その常盤橋公園には今現在でも渋沢栄一の銅像が立ってます。

ところがこれで終わらないのがこの常磐橋。
2011年(平成23年)の東日本大震災により、再び大きな被害を受けてしまいました。
そこから10年近くに及ぶ修復工事を行い、2021年(令和3年)5月より通行が再開されました。

八角形の大理石の親柱と、唐草意匠の手すり柵、そして路面には当時いち早く取り入れられた「歩車分離」(人は端、馬車と人力車は中央)が再現されています。
何も知らずに歩くと、何故段差ができているのか不思議ですが、そんな秘密が隠されていたんですね。

これらは浮世絵、古写真、資料などを頼りに石垣の1つ1つを取り外した後、完全に同じ位置になるように組み上げ
正確に復元されたとのことです。

また現在本石町四丁目にある1873年(明治6年)に設立された中央区立常盤小学校は、江戸城の正門たる常盤橋御門からその「常盤」の名前を冠し、まもなく創立150周年を迎える由緒ある小学校です。
(現在、幼稚園は休園中)
東京都選定歴史的建造物、経済産業省近代化産業遺産に指定され、最近では特認校となったことで中央区全域から児童が通い、児童数も増え、活気を呈しています。

その常盤小学校の近隣には今でも地元住人が多く住んでおり、その多くが町会員となり、またこの街に根差す企業も一緒になって本石町を守り続けています。

そんな町会の心の拠り所になっているのが「白旗稲荷神社」です。
この街一帯はその昔、「福田村」呼ばれていました。
その鎮守として「白旗稲荷神社」が祀られました。

源義家が奥州征伐に際して白旗を社頭に立てたのに始まると伝えられ、日本橋本石町周辺(福田村)の鎮守社として祀られていたといいます。この白旗稲荷神社は江戸の時代に富籤(くじ)、つまり今でいう宝くじを行なっていたそうです。
この富籤は江戸庶民の間で爆発的ブームになったそうです。
もちろん今ではやっておりませんが、そんな縁起の良い神社としていろいろな思いを持つ方が多く参拝に訪れます。
1976年(昭和51年)国鉄(現JR東日本)の東北新幹線の線路工事による開発により、現在の位置へ移転、社殿、社務所が完成しました。
そしてそれから45年の月日が経ち2021年(令和3年)、
社殿の老朽化により改修工事が行われ、現在の町会員の手により、往年の輝きを取り戻しました。
これまでなかったライトアップや鬱蒼と茂っていた緑の剪定等により、参拝者も増えてきました。

こうして本石町の歴史と現代の様子を記してきましたが
本石町界隈は現在も多くの再開発が行われ、これから10年、20年の間に大きく様変わりしていようとしています。
江戸の頃より大火や地震によって修理、修復を繰り返し、
そして日本の中心地として膨大な人口を有する街として存在してきました。
今後も街が変わり続けていく中で昔の街並みがなくなっていくのは寂しい気もいたします。

ですがバブルの頃、銀行など金融が多かったこの界隈は
午後3時を過ぎるとシャッターが閉まり、それもビルの1階の多くが金融の店舗、窓口だったため、都心の中のシャッター街でもありました。
また雑居ビルが立ち並び、それも風情といえばそうなのですが、決して綺麗な街並みではなく、人が滞留する街ではありませんでした。

しかし、昨今の魅力ある街づくりによって人がかなり戻ってきたといえます。
平日もそうですが、特に土日・祝日の人出は目を見張るものがあります。

江戸時代、最新の流行を発信していた100万都市は、現在1400万の人口を抱え、まだ発展し続けています。
その中心にあると言っても過言ではない本石町、その街を支える、いや中心を担う存在として町会があります。
是非、この由緒ある本石町へ引っ越しされた際には本石町町会へご入会いただき、皆さんで手を携えて活動を行っていきたいと考えております。