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当町会の会長を仰せつかっております安部隆彦です。
早速ですが、先ずは日本橋本石町の概略をお話しさせて戴きます。
町内にある、都内で最古の石橋「常磐橋」は江戸城の常盤橋御門への入り口で、徳川家康公をお祀りする日光東照宮へと続く重要な街道の始点でありました。また往古、この辺りは福田村と称され和銅時代の当初には渡来人が多く来ました。彼らは鉄を初めとする金属を用いる文化、機織りの文化を我々の先祖に伝えたようです。そうした技術が金貨を作る「金座」へと発展していったようです。現在の日本銀行はこの金座跡にあります。
時を経て近年、東京駅や丸の内、大手町などから大型の開発が始まり日本有数のオフィス街が出現しました。そして今や日本橋もそうした大規模オフィスと肩を並べる大開発が実現しつつあります。日本橋は中央区の地図では最も端に位置してますが、江戸においては経済の要衝の地であり特に商人が台頭する活気あふれる町でありました。日本橋川にかかる一石橋からは七つの橋が見え、八つ見橋とも称され江戸名所の一つでした。このように交叉する川と幾多の橋で整ったインフラのもと、鯔背な町人が活躍する町でした。「現日本橋周辺」には魚河岸がありましたが関東大震災で築地に移転させられてしまいました。
町内には多くの史跡があり、中でも「時の鐘」は町民に江戸の時刻を告げておりました。(現在は小伝馬町の十思公園に移築され、大晦日や敗戦記念日にはその音を響かせております)余談になりますが、この鐘は小伝馬町の牢屋敷で処刑される罪人の命を少しでも長引かせるように、わざと遅らせて撞いたため「情けの鐘」と称されたこともあるようです。また、呉服橋と一石橋の間には「満(ま)よひこの志(し)るべ」と彫られた石標がありました。人々で賑わう日本橋で迷ったら最後、当時は一生の別れとなることもあったようです。そうならぬよう石標に迷い子の紙を貼り連絡帳にしていたようです。現在、迷い子石標は一石橋のたもとにあります。
日本橋と神田は「竜閑川」が境となっており、古人は竜閑川までを日本橋と言ってました。「竜閑川を越えたら江戸ですらない」という偏屈に日本橋を愛してた人もいたらしいです。この竜閑川のごく近い場所に「白旗稲荷神社」が祀られています。源氏の絡む伝説から、神社の紋章も稲荷社本来の紋章と源氏の笹竜胆をいただく、都内でも古い稲荷神社と言われております。50余年前に新幹線建設で移転以来、手入れすることもなく荒れた様相を呈していたお社と境内でした。今回(令和3年)令和の大改修を行い小さいながらも明るい神社になりました。
宮大工、庭師、皆さまのお力で神社が清々しく甦りました。心做しか行き交う人々が増えた気がします。この町に居ながら知らない人がいる鎮守の神様ですが、いぶし銀の輝きを町に照らして頂いております。おかげ様で、ここに住まう人々の家内安全、企業の商売繁昌に感謝しております。
本石町は日本橋川に面した一丁目から竜閑川の四丁目までの細長い街並みであります。(竜閑川は埋め立てられてます)。
現在、三井不動産(株)様を中心としたデベロッパーによる大々的な開発が行われています。開発の成果には大いに期待しておりますが、先ずは永代に亘り続いた地域の平穏と安全を心から願っております。日本橋本石町は日本橋の数ある町会の中で『いの一番』の町です、この町がないと何事も始まりません。鳶の世界(江戸消防記念会)でもい組は別格です。本石町を陰ながら守ってくださる「頭」も「い組」です。とにかく静かではありますが多くの歴史と伝統を持ち、それを大切に守りながら新しい波も受け容れていく町会の運営を担っていくつもりです。
どうか皆様もご協力のほどお願いいたします。
令和4年4月
日本橋本石町会会長 安部隆彦